2008年10月16日
良くないこと
社会人になって痛感してるのが、好不調の波がはっきりとあるのだということ。良いことがあるときは割と立て続けに起こるし、嫌なことも驚くほど連続して起こる。
今日はとにかく朝から仕事帰りまで良くないことだらけで、もし昼休みの、同期と過ごした和やかなひとときがなかったら、思わずホームに接近する電車に吸い寄せられてたかもしれない。それぐらいひどかった。
社会で生きるには、誰かと生き続けるためには、思い通りにならなかったり共感できないことがたくさんある。でもそんな我慢や妥協や見ないふりをしていて、自分自身は失われてないのか、時折不安になる。それでいいのか。納得できるのか。何か大切なものを忘れてないか。決して誰にも譲れない思いと誇りは残っているのか。
器用に生きられない。要領よく過ごせない。僕が認められないことでも、それがそこにある種の正当性を帯びて存在しているのなら、多分僕がいけないのだろう。あとは自分が変わることを選ぶのか、行動を起こすのか。色々なシステムは一見ひどく複雑で、到底太刀打ちできないように思えるけど、実はひどくシンプルなことで支配されているのだと確信している。少しの勇気で、最初の一歩さえ踏み出せれば、あとは簡単だ。だから、僕は。
明日はもう少しマシな日になってくれたらなと思う。そして僕はそうなるんじゃないかと、割と信じている。こんな偏屈な僕だけど、この世界に一人ぐらいは賛同者がいるかもしれない。だから今日もこうして生きている。
2007年01月15日
ホワイトプラン
僕の記憶が正しければ、明日からソフトバンクのホワイトプランなるものが開始される(記憶が正しくなかったらごめんなさい)。
MNP対策のゴールドプランが何だか複雑怪奇だったので、今回の料金プランは「通話のみ」なら実にシンプル。
・1時から21時までソフトバンク同士の通話およびメール(SMS,MMS)送受信無料
・上記時間帯以外、および他社携帯・固定へは30秒21円
・月額980円
パケット通信が絡んでくると面倒なことになるので省略するけど、これは魅力的だなあ。学生さんにとっては願ったりかなったりのプランじゃないだろうか。色々したらそれなりの金額になるけど、ポイントは携帯を持つために必要な最低金額がこれだけに抑えられること。僕も2台目として考えてしまうかも・・・。NOKIAのN73が欲しい今日この頃。「想像力に、翼を」。なんて格好良いコピーなんだろう。
2006年11月25日
危機管理能力0のアンパンマン
かつてアンパンマンについて書いたことがあるけれど、再度。あと1ヶ月で24歳ともお別れなので、その前に語っておきたいと思います。四捨五入して30になる男がアンパンマンを語るのもどうかと思うので(別に24だから良いという根拠は全くないのだけど)。
昨日は会社が休みだったものの、特にすることもなく、あまりに暇だったので、リビングで母親と話しながらテレビを見てました。平日の昼からテレビ見てるなんて、ぜいたくというか時間の無駄遣いというか、それはまあいいとして、夕方アンパンマンが始まったんですね。
僕が小さいときに見ていた(気がする)アンパンマンと同じ歌が流れ、お決まりのワンパターンが始まりました。あまり真剣に見てなかったのでストーリーは全然わからないのだけど、バイキンマンだか何だかの"敵"となる対象物に対して、いきなり「アンキック!」を浴びせたのです。キックをするアンパンマンは珍しいというか、パンチよりキックの方が破壊力ありそうな気がするなあ、などとどうでもいいようなことを考え、これでめでたしめでたしかと思いました。
が、再びテレビに目を向けると、アンパンマンの顔が氷っていて名台詞「顔が氷って力がでない・・・」(うろ覚え)が聞こえてくるではありませんか。いつの間に!キック1発で倒したんじゃないのか、アンパンマン。その後も全然見てないので知らないのだけど、きっとジャムおじさんが新しい顔を焼き、ジャムおじさん本人かバタコさんかチーズが、プロ野球選手も真っ青なコントロールで「アンパンマン新しい顔よ!(もしくはワン!)」と顔を投げ、元気百倍になったアンパンマンはアンパンチ一発で敵を倒し、バイキンマンは「はひふへほー」と捨て台詞(?)を残し、山の彼方に消えていったことでしょう。
ここで言いたいのは、アンパンマンはテレビを見なくたってストーリーの大方がわかってしまうということではなくて、アンパンマンの危機管理能力のなさです。
顔が弱点だというのはわかるんですよ。そりゃパンだから濡れたらダメだし、かびてもダメだし、欠けてもダメ。どうしてそれで力が出なくなるのかはわからないけれど、100%の状態でフルパワーになれるというのは無理な設定ではない。だがしかし、それならなぜ顔を守らないんだアンパンマン、とどういうわけか昨日すごく疑問に思ったのです。アンパンマンは顔が弱点=顔を守る必要がある。どうしてこの発想がないのかと。毎回寸分狂わず同じアンパンマンの顔を焼く技術があるジャムおじさんなら、アンパンマンの顔を保護することなんて朝飯前じゃないですか。っていうかヘルメットかぶれば全てOKじゃないですか・・・。もう10年以上バイキンマンと戦い続けているというのに、どうして進歩がないんだアンパンマン。
ヘルメットかぶったアンパンマン。シュールで良いと思います。多分。
«続きを隠す
2006年07月05日
The best is yet to come
何かの壁にぶつかったとき、自分に言い聞かせる言葉がある。
「お前はこんなもんじゃないだろう?まだまだやれるだろう?」
そうやって、ずっと必死になって答えを見つけてきた。見つけ出そうとしてきた。どうにもならないことだってたくさんある。その先に何があるかなんて、壁を登ってみないとわからない。それでも、あくまでも自分自身の力を、未来を、信じている。自分で自分を信じられなくなったら、それで終わりだと思うから。
Cuts Like a Knife/Bryan Adams
時がこんなに早く流れるなんておかしいよね
まだまだこれからだって言うのにね
これで終わりなんて嘘だろう?
まだまだこれからだって言うのにね
<The Best Was Yet To Come>
MAROONED/LARRY LEE
最高の瞬間はまだまだこれからだよ
この言葉が本当だって
君は知っているだろう?
<The Best Is Yet To Come>
デビッド・サンボーンのサックスが絶品。
2006年03月22日
旅バトン

素敵な写真が満載のONE VISONのLOTUSさんから、旅バトンが回ってきました。ありがとうございます。
1)今までに旅をしたことのある場所を教えてください(国内・海外とも)
家族旅行を抜かすとこんな感じです。
国内:札幌、箱根、伊豆、浜松、蒲郡、伊勢、金沢、大阪、神戸、宮古島
海外:ニューヨーク、ベルリン、プラハ、ブダペスト、ニュージーランド(オークランド、クライストチャーチ)
2)その中で、一番よかったところはどこですか?
間違いなくベルリン。
3)もう一度必ず行きたいところはありますか?どこですか?
札幌かな。そして8回行っても足りない宮古。
4)旅で起きたびっくりどっきりハプニングを教えてください。
減圧症になって沖縄本島で1ヶ月入院することになった・・・というのは前に書いたので、チェコの宿で全然言葉が通じなかったこと。ボディランゲージで何とかなるなんて嘘だと思った。まあ割と慎重な行動を心がけるので、あまり大きなハプニングには見舞われてません。幸いにもというか何というか。
5)旅で出会った忘れられない人はいますか?
愛すべき宮古のダイビングショップの方々。あとニューヨークに行くときに飛行機の席が隣だった小柄な可愛い女の子(笑)。
6)旅するならどっち?バックパックでなるようになれ派 or スーツケースでしっかり計画派
理想は前者だけれど、大体後者です。バックパックでしっかり計画派。
7)旅に必ずもっていくものを5つ教えてください。
ポータブルオーディオプレーヤー、本、筆記用具、お守り代わりのモノ、好奇心
8)新婚旅行にいくならどこにいきたいですか?
ベタに南仏とかモナコとか。そして宮古。
9)これからいってみたいところはどこですか?
四国・九州に初上陸と、あと兵庫より西の本州にも行ったことがないので、そっち方面を。海外だと北欧・中東・南米かな。
10)一緒に旅をした愛しいひとにメッセージをどうぞ。
僕のわがままに付き合ってくれてありがとう。
11)旅バトンを5人のひとにまわしてくだされ!
仕事の息抜きに、もし気が向いたら(時間があったら)mersy'sのまーしーさんお願いします。バトンは1つしか持ってないので、1人で。
«続きを隠す
2006年03月03日
修士2年
本当にあっという間だった。
就職活動はこの上なく辛かった。でもやっぱり、何度思い返しても、あれは僕にとって大切な経験だったのだと思う。もしかしたら何かを認めたくないからそう思いこんでいるだけなのかもしれないけど、一応、僕なりに時を過ごし、1つの選択肢を選んだ。
研究室に居づらくなったのもこの年。僕を含めて、皆それぞれが勝手な事情を抱えている。トップが機能を果たさない。当然、組織は崩壊する。そういう状況を黙って見続けてきた。見てみないふりはできず、泥沼にはまりこんでいった。おそらく、自ら求めて。
その後も状況が好転することはなくて、僕は不安を残したまま、研究室を去ることになる。かすかな希望さえないあの場所で、皆一体どういう時間を過ごしていくのだろう。そればかりが気になる。
でも1つだけわかったこと。それは僕を見ていてくれた人が、どこかにいたのだということ。それは本当に嬉しかった。久々に人の温かさを感じた。
そして自ら求めて、ある人と大きな約束をした。その約束は絶対に守るし、果たしてみせる。これからの人生をかけて。
2006年03月02日
修士1年
前期は授業が忙しかったことしか覚えてない。でも忙しかったけど、すごく楽しかった。学部の頃とは段違いだった。僕が求めていたのはこういうものだったんだなと、大学院で初めてわかった。
ただし夏ごろから、前年の負のエネルギーで動き続けた反動が出てきた。今まで先のことを考えているつもりで実は全然考えていないことに気づいた。過去にこだわりすぎたのかもしれない。僕はあまりにも無力だった。
でもそんなに悪いことばかりじゃなかった。むしろすごくいい1年だった。
この年の秋は、今までの人生の中で一番素敵だったと思う。あのとき目にした風景、聴いていた音楽はいつまでも忘れたくない。いつか色褪せるとしても、たとえ一欠片でもこの胸の中に残しておきたい。それぐらい素敵だった秋。
もうあんな時間は二度とないだろうなと思う。でも、それはそんなに寂しいことではないのかもしれない。多分。
2006年03月01日
大学4年
夢を失った年、なのかもしれない。
かつて書いたように、僕はゴールデンウィークの連休後、宮古で潜って減圧症になり、沖縄本島で1ヶ月強入院した。医者に「ダイビングはもうするな」と、ドクターストップをかけられた。
それまでずっとずっと、どこまで本気だったのか今では曖昧にしか捉えることができないけれど、それでも真剣に、僕はダイビングのインストラクターになることを考えていた。もしイントラになれなくても、例えば海の近くで暮らすことを夢見ていた。海さえあれば生きていけるような気がした。どんな困難がやってきても、一緒にいる覚悟を決めたつもりだった。
甘かったのかもしれない。海が僕を拒んだのかもしれない。僕の居場所はここじゃないよと、十分すぎるぐらいな形で教えてくれたのかもしれない。夢はもろくも砕け散った。
そんな喪失感を抱え、時はあっという間に流れ去った。もう何も残ってないんだな、なんていう思いとともに、言わば負のエネルギーで、卒論に取り組み続けた。きっとあのときが、研究面において僕のピークだったのだと思う。
春に宮古に行った。僕の居場所は、まだあった。
2006年02月28日
大学3年
海に戻った。2年前にインストラクターをしてくれた人が突如メールをくれて、何度かやり取りをしているうちに、また潜ってみたいなという気持ちが芽生えた。
2年ぶりに潜った海は、初めて潜ったときよりもずっとずっと素敵だった。ダイビングという行為を心から楽しめた。今までに経験したことのない、心の安らぎ。それは本当に心地よいもので、そこから離れてしまうことを体が拒んだ。
そして何が正しくて何が間違っているのかがわからなくなった。自分が築き上げてきたものが、否定はされていないけれど、まるでそんなもの最初からなかったかのように思え、どうしようもない気持ちでいっぱいになった。帰りの飛行機で、元の世界に帰るのが嫌で自然と涙がこぼれた。
ずっと答えを求め続けた。その答えは海にあって欲しかった。
2006年02月27日
大学2年
何もなかったような年のような気もするし、実は大切なことを見失っていた年のような気もする。
授業なんてどうでも良かった。授業に出て、アルバイトをこなし、たまに友人や当時付き合っていた人と遊んだり。当たり前のような毎日が、実はとても幸せな日々なんだということに気づくのは、残念ながらずっと後のことだった。
徐々に歯車が狂いだした。それはあまりにも自然だったので、狂いだしたことすら気づかなかった。そして目が覚めたときには手遅れ。僕には何も残ってなかった。
こんなことを言ってもしょうがないけど、もしも大学4年間のどれかをやり直せるとしたら、この1年をやり直したい。今ならば、あの時自分は何を選べば良かったのかということがわかる。たとえそれによって、今のこの自分がなくなったとしても、その後悔よりは、この年の後悔の方が大きいだろうと思う。
2006年02月26日
大学1年
大学生活で最も楽しかったのは、大学1年の最初の2,3ヶ月だったと思う。授業なんか全然聴かないで、本ばかり読んでいた。理工学部の授業は大変だと高校時代に脅され続けていたけれど、はっきり言って全然たいしたことなかった。勉強面については、4年間特に苦労することもなく、自分のペースをつかめていたと思う。
楽しい日々はすぐに終わりを告げ、夏頃から孤独と向き合うようになった。表面的なつきあいが嫌だったのだと思う。僕にしてみれば、誰もが孤独に対する不安を隠すかのように道化師を演じていた。中に入ってしまえば感覚が麻痺するが、一歩外に出て眺めてみると、いかにそれが滑稽かが手に取るように分かった。分かってしまったという方がいいのかもしれない。「皆でバカをやるのがかっこいい」みたいな雰囲気で包まれていたサークル。そんなの全然かっこいいとは思えなかった。
夏休み、なんとなく沖縄の宮古島へ行った。初めての一人旅。そしてすることなんて何もなかったので、ダイビングのラインセンスを取った。それは僕の好奇心を満たすには十分なものであったし、とても素敵な体験だった。ただし、それだけだったのだろう。その後2年間、僕は海に潜ることはなかった。
1年間が終わろうとする頃、早くも高校の同窓会があった。みんな変わってなかったのがすごく嬉しかったし、変わらなくてもいいんだと安心した。それはすぐに間違いだと気づくのだけど、僕らの間には、変わらなくていい何かがあると今でも思っている。
2006年02月25日
高校3年
少しずつ、高校生活が終わりに近づくにつれ、何かが変わっていったのかもしれない。
学校の授業でも、アルバイトでも、友達と一緒にいる時でも、どことなく1つ1つが違うように感じてきた。高校生活が終わるんだということを意識していたのかな。何かしたいんだけど何もできなくて、そんな自分がひどくもどかしかった。
大学へは受験をすることなく、推薦で進学できることが約束されていた。僕はその大学に小さい頃から何となく行きたいなと思っていたし、この高校に進学するときには、その大学に進学することを前提として考えていた。
ちょうど携帯電話やインターネットが爆発的に普及し始めた頃。情報というものが大きく変わりつつあり、それは僕にとって大きな衝撃であった。一体この先には何があるのか、それを見守りたくて、大学では通信の勉強をしようと決意した。
そして僕は第一志望だった学部の学科へと進学を決めた。卒業式では、これでお別れだなんていう気持ちは全然なく、皆と一緒にまた同じ大学で頑張っていくんだと感じていた。そしていつでも会えるんだって。
2006年02月24日
高校2年
少し中だるみがあったことは認めざるを得ない。片道2時間かかる通学がだんだん嫌になってきて、漠然と、時間が過ぎ去っていくことだけを願っていた。
中学の時から付き合っていた子がアメリカに行ってしまった。彼女はまだ日本に帰ってきていない。今後帰ってくるのかどうかもわからない。それが僕らが別れた原因なのかどうかは知るよしもないけれど、最後、何も言葉をかけることができなかった。見て見ないフリをしたかったのかもしれないし、会わせる顔がなかっただけなのかもしれない。残念ながらもうほとんど顔を思い出すことができないし、二人でいた思い出も消えつつある。彼女も同じであればいいなと思う。
そしてこの年、僕は角松敏生に出会った。それはあらゆる意味で僕にとって大きな意味を持つものだったと確信している。目の前に広がっている素晴らしい音楽の世界に、心からワクワクした。それで少し自分を取り戻せたのかもしれない。この時から常に、僕の生活には、そこには、音楽があった。
2006年02月23日
高校1年
本当のことを言えば、高校受験、僕は第一志望だった高校に落ちたのだけど、第二志望より下の4校は受かった。戦績で言うと4勝2敗。第一志望と言っても、その一番の理由は家から近いからという理由だったから、特別その高校でなければいけないということではなかった。そして、第二志望だった高校へと進学した。
願書をもらいに行ったとき、この並木道を歩けたらなと思っていた。その並木道を実際に歩いて校舎に向かえるというのはやはり嬉しかった。通学には家から2時間たっぷりかかったけれど、僕は、自分で選んだ、つかみ取った選択肢に満足していたのだと思う。
あらゆる意味で、高校生というのは、僕の青春時代そのものだった。当時はそんな実感全然なかったが、今はそう思う。
色々なことが一気に過ぎ去っていた1年間。あまりの速さに自分の立ち位置を見失いかけたけれど、それまで自分が蓄積してきたことが通用するところが少しあって、ギリギリ踏みとどまれていた。ここは中学の延長ではないんだなということだけはわかっているつもりだった。そういうのが良かったのかもしれない。
目の前のことに割と必死で、でも、それはそれで充実していたし、怖いものなんてほとんどなかった。色々なことが輝いていた。
2005年12月31日
Thanks 2005 from blue jam
今年は100を優に超える数多くのコメントをいただき、数人の人からはメールまでいただきました。心から嬉しく思います。そうやって何らかのレスポンスをしてもらえると、月並みだけど「ブログを書いてて良かった」なんて感じたりします。ひそかに読んでくれている方も、どれだけいるのかわかりませんが(いないかもしれないけど)、ありがとうございます。僕としては読んでもらえているだけで十分です。
たまに過去の記事を読み返したりするのだけど、やっぱり下手な文章だよなと思います。自分で読んでて恥ずかしいのもあるし、全然納得がいかない。じゃあなんでそんな文章を公開しているのかと言われれば、答えに窮するのですが、皆さんが読んでくれているから、としか言いようがありません(ちょっと矛盾してますが)。
読んでくれている人がいるのだから、それに応えるのが義務だろうと、今年のある時から義務感みたいなものを感じるようになりました。でもそれは僕にとって決して窮屈なものなんかではなく、「読んでくれてありがとう」という感謝の気持ちがベースにある嬉しいものです。毎日楽しみながら、このブログを書いてます。
来年は僕もいよいよ社会人に、一介の大学院生から、メーカーの研究者になり、新たな生活が始まっていきます。これからも読んでくれている人に楽しんでもらえるよう、価値を与えられるよう、少しずつ頑張っていきたいと思ってますので、もしよかったら、来年もよろしくお願いします。
1年間本当にありがとうございました。良いお年をお迎え下さい。
2005.12.31 K.Takeda
Selection 2005
今年の現時点までの総エントリー数は675。塵も積もれば山となるとは本当で、いつの間にこんなに・・・という感じです。その中から関連性のあるもの、僕にとって大きかった出来事(の一部)をまとめました。
本当は加筆・修正でもできるといいのだけど(すごくしたい)、そんなことしてると年明けに間に合わないので、何もしてません。というか、ほとんど自分のためです。もしよかったら、僕と一緒に2005年を振り返ってみて下さい。
2005年11月20日
受け入れなければいけないこととか
人は、自分が受け入れたくないと思うようなこと、そしてそれが明らかに正しいと思われることに出会ったとき、一体どのような行動をとるのだろうか。なかったことにする、目を背ける、反発する、諦めてありのままを受け入れる・・・。いずれにしろそれは難しいこと。そんな文章に出会ってしまった。困ったな。
それが論理的説得力をもつもので、反論の余地がなく、また歴史が正しいと証明していたとしたら。まだそこまでの判断はできないのだけど、考えれば考えるほど正当性を帯びてくる気がする。もしそうであれば、受け入れられない僕は単なる愚か者、あるいは綺麗事しか言わない理想主義者ということにでもなるのだろうか。
僕がその文章に対し「いや、そうじゃないんだ」と言いたいのであれば、僕自身が実際にそれは違うと証明してみせるしかないのだろうと思う。果てしなく長く厳しい戦いが始まりそうだ…。僕が勝手に意識しているだけなのだけどね。まあ人には譲れないものの1つや2つぐらいあってもいいじゃないですか。
いつまで僕がその信念を持ち続けられるか。変わらないでいられるか。さあ始まり始まり。人生ってこんなことばかりだね、しかし。
2005年11月12日
Cathay Pacificアメニティ
2005年のエアライン・オブ・ザ・イヤーに輝いた(SKYTRAX社実施)というキャセイパシフィック航空。このSKYTRAX社のWebサイトによれば、キャセイパシフィックの評価は当然5つ星、その他5つ星の航空会社はマレーシア航空、カタール航空、シンガポール航空のみ(日本のJAL、ANAは共に4つ星評価)。
僕はこの夏ヨーロッパに行ったとき、成田から香港、香港からロンドン(復路は逆)とこのキャセイパシフィックに乗ったのだけど、正直に言ってそこまで良いという感想は抱かなかった。はっきり言ってBritish Airways(4つ星)の方がずっと良かったし、ニューヨークに行ったときに乗ったコンチネンタル(3つ星)と同等ぐらいだと感じた。もしかしたらこれは飛行機の機体のせいなのかもしれないけど。でも、サービスもそこまで良かったとは思えないな…。香港で搭乗するとき意味不明な英語で問いただされたのは正直不快だった。
ともあれ、部屋にキャセイパシフィックのアメニティが転がっていたので、それを紹介します。

シートのポケットに、こんなのが入ってる。最初は何なのだろう?と思った。色のセンスがないよね、しかし。

開けてみるとこんな感じ。
・歯ブラシ、歯磨き粉セット
・ミンツ(2粒)
・長い靴下のようなもの
・(なぜか)ネックピース
・アイマスクご希望の方は申し出て下さいという紙
ネックピースは記念品みたいな感じなのだろうか。ちなみに長い靴下(のようなもの)だけど、広げると40センチぐらいある。

僕の予想では、靴を脱いだときの機内移動時用に、靴下の上からこれを履くのではないかと思うのだけど、どうだろう。
«続きを隠す
2005年11月06日
今までありがとうございました。そしてこれからも
先日はBlogPeopleの「今日のラッキーサイト」に選ばれ(そしてModern Syntaxで紹介してもらえ)、たくさんのアクセスを頂きました。ありがとうございました。
ちょうど何となくアクセスログでもとってみるかと思い設定したところだったので、どこから飛んできたのか一目瞭然だったのですが、とんでもない状態でした。間違いなくblue jam開始以来の盛況ぶりだったと思います。
でもね。おそらくこういう人達は一見さんにすぎなくて、もちろんこの中でblue jamが気に入ってくれた人がいたのならそれはとても嬉しいことなのだけど、まあ残念ながらその可能性はかなり低いのではないかなと思ってます。それよりも、ブックマークしてくれている人(あるいは自分のブログのリンクから飛んできてくれる人)の多さに感動しました。多いと言ってもたかが知れているのだけど、僕としては完全に思っていた以上。いい言葉が見つからないのですが、とにかく、そのことがすごく、本当に嬉しいのです。
もう何度も書いている気もしますが、僕としては、アクセス数なんて全然なくても構わない。1人でも2人でも、定期的に読み続けてくれる人がいたら嬉しいなという思いでこのブログを始めました。きっと僕という人間を見続けて欲しかったのだと思います。でも僕が勝手にそう思っているだけであって、皆さんがどう思おうが、それは皆さんの自由なので、そう難しくは考えないで下さい。1週間に1度でも、1ヶ月に1度でも、気が向いたときに見てもらえれば、僕はそれで十分なのです。僕はここで生き続けていますので。
読み続けてくれている人たちに、僕は何か与えることができているのだろうか。ときどきこんなことを考えます。限りある時間のいくらかを、このサイトを見るという行為に費やしてくれているのだから、僕としてはそれに対する対価を提供したい。もしかしたら少しぐらい何かを見つけてもらえるのかもしれないけど、正直に言って、僕としてはまだ全然納得ができていません。でも、僕にできることは今ある全てをぶつけることだけなので、できる限りそうしようと努めているつもりです。
最近は音楽記事が多めですが、一つのことに特化させる気はありません。タケダケイシそのもので勝負したい、というと少し変な感じもしますが、とにかく、僕という一人の人間そのものを見せていきたい、見てもらいたいと思ってます。もしかしたら僕が生きているという証拠を、存在の証明を、このblue jamで示し、それを認めてもらうというのが、最終的な目標なのではないか。そんなことをふと考えたりもしています。とは言え、あまり肩を張りすぎても良いことはないので、あくまでも自然に、最終的にそこに帰着できればなと思ってます。
昨日、レンタルサーバ及びこのblue-jamドメインの契約を1年延長しました。とりあえず、僕が健全な限り、もう1年間は続けさせて頂きます。これからも変わらずに、たまにそっとのぞいてもらえれば、それは僕にとって何よりの喜びです。
いつも本当にありがとうございます。心から感謝してます。
2005.11.6 K.Takeda
«続きを隠す
2005年11月02日
Make one
僕の就職活動に決定的な影響を与えた1冊を紹介したい。リクルートから送られてきた1冊の冊子。この冊子を読み、心がいっぱいになった。涙が溢れてきた。そして、エンジニアになることを決意した。

夢中になろう。
幸福な時間をすごしていますか。
食べることも寝ることも忘れて、なにかに夢中になれる
幸福な時間をすごしていますか。
思えば子どもの頃は、毎日がそうだった気がする。
毎日、目の前の新しいなにかに夢中になっていたような気がする。
まるでその一日だけは永遠に終わらないかのように、
自分の知的好奇心に正直であること、
こころが動く瞬間に素直であること、
たったそれだけを思い出せば、きっとあの時間はよみがえる。
そして、君たちがそれを忘れない限り、人類の未来はつくられる。
思い出さないか、モノづくりの遺伝子たちよ。
僕たちは
疑わなかった。

できないことなど
無いと
信じていた。
それはいまも。
きっとこれは確かなこと。
僕たちはモノづくりで、
じぶんをつくっているんだ。

«続きを隠す
2005年09月30日
2003年減圧症入院記part.13
最後。無事退院して、沖縄から東京まで船で帰った。2泊3日!特別な事情がない限り二度と乗りたくない。時は金なり。
ちなみにこの後、世田谷区にある自衛隊中央病院という病院の医師を紹介してもらったので、しばらくそこに通い続けた。治療らしい治療はなかったけれど(ビタミンB12を処方されたぐらい)、帰ってきた頃に比べたら症状はずっと良くなった。今はもう全然何ともないです。
2003/06/12(木)
退院
朝の回診時に、MRI検査の結果で脳梗塞の所見が消えたと言われた。あまりにも気が動転してたので、「それはいいことなんですか?」などとくだらない質問をしてしまった。いいに決まっている。先生も困惑気味に「いや、いいと思います…」とか言ってたけど。
朝本当に最後のチャンバーに入り、その後先生から今後について説明され、終了。最悪だった病院の最後のご飯はカレーだった。宮古のショップの人が迎えに来てくれるというのでそれをを待ってたら、別のスタッフの人が突然参上。つい30分前、この人に「また今度宮古に遊びにいきますので・・・」と電話で別れの挨拶をしたばかりだというのに…。ジャスコで買い物をしたりしたあと、港まで送ってくれた。
今回幸いにも東京までの便があったので、それで2泊3日。一番安い二等の大部屋で1人22000円。病み上がりということで父親が同行。どうせ客なんかいないよなと思ってたら、全然いなかった。大部屋の定員は70人となってたけど、途中志布志で2人乗ってきたものの、僕をいれて計10人。1等やら寝台をいれても20人ぐらいじゃないだろうか。割と快適だったと言えよう。ただはっきりいって僕たち人間は荷物のおまけみたいなもので、荷物を積むのが遅れているとかで那覇港の出港は1時間半ぐらい遅れた。
揺れもほとんどなく、船酔いは全然問題なかった。飛行機よりも揺れてない、ぐらいかな。本島周辺はずっと携帯が使えたが、それ以降全く使えず。
2003/06/13(金)
船の中で
当然だけど船の中はかなり退屈である。一応衛星放送は映るが、僕一人でテレビを見るわけにもいかないので自粛。あとは本を読んだり、音楽を聴いたりとダラダラと過ごしてた。
昼はカップ麺、夕食は船内のレストランを利用した。無難にカレーを食べた。席が少ないので相席となったが、やけに腰の低い、バイクで日本横断している人と一緒になって、唐揚げを一個もらってしまった。
夜は巨人阪神戦を見ながら、見知らぬおじさんと今年の巨人について語り合ったり。
2003/06/14(土)
ついに帰宅
出港が遅れれば着港も遅れるということで、到着は予定が12時だったものの実際には14時半。でも東京湾に入ったときは本当に嬉しかった。やっぱりここが僕のいるべき場所なんだよなと感じた。りんかい線に乗って無事帰宅。
さて家に帰ったら何をするか。とりあえずたまりにたまった請求書等の郵便物に目を通し、船にひかれた(!)という器材のチェック。よくわからない壊れ方をしてた。まあどうでもいいのである。あとはメールチェックをして、必要最低限のメールを送った。なんか他にも色々とすることがあるんだろうけど、とりあえず疲れてたのでそれで終わり。テレビつけたらル・マンがやってた。もうそんな季節か。
今回計11回も見舞いにきてくれたSさんにお礼がしたいと伝えたら、お礼なんかいらない、僕が海を忘れないでいてくれたらそれで十分、今度会ったら美味しい物でもおごってと言われた。どこまでもいい人である。僕はもう潜れないけど、海を好きでいられるのだろうか。忘れないでいられるのだろうか。そして彼女にまた会える日は来るのだろうか。どうだろうな。
君が思い出になる前にもう一度笑ってみせて
優しいふりだっていいから子供の目で僕を困らせて
なんとなくこの歌が頭に浮かんだ。
«続きを隠す
2005年09月29日
2003年減圧症入院記 part.12
退院日が決定。100%完治じゃないのに退院ってどうなんだろうと思ったのだけど、さすがに帰りたいという思いも強かった。野球放送で横浜スタジアムとかが映る度に、自分の街が恋しくなってた。
2003/06/09(月)
入院生活31日目
朝の回診時特に症状が変わってないことを伝えると、今週退院することに。こんな状態で一人で帰るのはどうかということで親の付き添いが条件。親の仕事の関係で木曜に退院決定。ちょうど東京行きの船があるので、それで帰るつもり。
チャンバーに入る前体温を測ると37.4℃と微熱があったので、色々と診察をされた。チャンバー終了後、ウィルス感染を疑われて採血された。特に問題なし。
午後ついに部屋移動となった。全然言われなかったから、逆にこっちから催促したような感じになってしまった。まあいつ部屋移動になるかわからないと、落ち着いてネットもできないし、電話もかけられないのである。移動した個室は枕元の電気がつかない、クーラーがきかない、テレビのチャンネルの映り悪いといった最悪の状態だったけど、文句を言ったら電器屋さんがきて全て直してくれた。1日3000円払って、前より環境悪くなったら最悪である。
夜は新パソコン購入を考えたり、親の飛行機を考えてみたり。退院当日に沖縄にやってくるのだけど、その日に限って昼間の便が全て満席…。
2003/06/10(火)
入院生活32日目
ようやく退院も決まり、あとは諸手続のみ。チャンバーに入った後、まず親が沖縄にくる飛行機のチケットをとり、そして船の予約の電話をいれた。ネットはするし、携帯も平気で使用、病院がいい加減でよかった。あと大学院の確認。前期英語の単位がくれば、無事行けるはずである。
夜10時半過ぎにSさんがお見舞いにきてくれた。通算10回目である。感謝、感謝。
2003/06/11(水)
入院生活33日目
今日もチャンバー。ラストだなと思ってたら、夕方明日も入ろうと言われた。退院当日も治療…。昼は所見ということで、色々なチェックをされた。特に問題もなく、全てクリア。その後トイレに行こうとしたら、看護婦さんにMRIがあると言われた。苦痛以外のなにものでもないMRI。ただ今日は担当医が毎回「はい、音がなりまーす」と言うので面白かった。そりゃMRIだもん音はなるよな。
昼間は宮古のショップの人と、Sさんがお見舞いにきてくれた。最後の最後まで僕は幸せだと思う。国仲涼子がバイトしててスカウトされたというフジヤでぜんざいを買ってきてくれたが、全然おいしくなかった・・・甘過ぎだ。あとショップで入ってる保険で今回の件が処理できるかもしれなく、でも減圧症は病気という扱いなので、どうなるかはわからないとか。
Sさんとはこれが最後。今までの感謝と、言いたかったことを伝えた。彼女はこれまで僕が出会った女性の中で最も素敵だと思う。飾りっ気がなくて、それでいて一本芯が通っている。また会えるのかな。でも何となく会える気がする。宮古からいなくなったとき二度と会えないと思ってたもんな。
«続きを隠す
2005年09月28日
2003年減圧症入院記 part.11
入院1ヶ月。単調な毎日だったので、それほど長いとは感じていなかったと思う。たしかにやることがなくて暇を持て余していたのだけど、何もすることがない(できない)時間というのは僕にとって凄く大事な時間になった。もちろん今思えば、という話です。
2003/06/06(金)
入院生活28日目
朝からチャンバー。なんかチャンバーに入ると症状が悪化してる気がするのだけど、どうなんだろう。でも時間が経ったら随分とマシになり、今は軽い筋肉痛?ぐらい。治療の効果なのかどうかは不明。
10時半頃には病室に戻り、そこから何もすることがない。ロビーにいって、置いてある本を色々とあさってきた。あまり面白くない4コマの雑誌、ゴルゴ13、コロコロ(これはさすがに読めなかった)などなど。ちなみに今日も部屋の移動はなかった。僕の予想では土・日の部屋移動はない。となると月曜になるのかな。退院と部屋移動、どちらが早いか勝負だ。
2003/06/07(土)
入院生活29日目
最後のチャンバー、というか最後になって欲しい。少なくとも沖縄では。可もなく不可もなくという状態で終了。明後日に退院の判断。もうなんかどっちでもいい。
午後3時頃に、いきなり宮古のショップの人が見舞いにきてくれた。4日前に千葉までウェイクボードの試験を受けにいき、その帰りらしい。東京の色々と懐かしい話を聞けた。やっぱり僕が育った街なんだよな。そろそろ帰りたい。今日も僕の病室に一泊か、と思ってたら晩ご飯を食べにいったまま帰ってこなかった。気を遣ってくれて車の中で寝たらしい。
22時頃Sさんもきてくれて、なんとなく懐かしい雰囲気に。去年の12月はよくこの3人で潜りにいったな。彼女は40分ぐらいで帰宅。明日雨が降ったらまたきてくれるとか。雨降るといいな。
2003/06/08(日)
入院生活30日目
今日はチャンバーお休み。朝10時頃、昨日見舞いに来てくれたショップの人は帰っていった。午後は体重を測られた。54キロ。ご飯はあまり食べてないけど、不思議と体重は変わってない。一日中なんとなくだるかったけど、シャワー浴びたら復活。そりゃ一日中部屋にこもってりゃダメだよな。明日は部屋移動といわれた。今度こそ本当に移動か?
朝はずっと雨、昼間からあがってきて、夕方はもうすっかり太陽が見えるほどに。雨降りはきまぐれである。ずっと願ってたんだけどな、仕方ない。でも夜電話があって明日こられたらきてくれるとか。嬉しいな。
«続きを隠す
2005年09月27日
2003年減圧症入院記 part.10
そろそろ終盤。たしかこのあたりに退院の話が出たと思う。そして人間関係の大切さが身に染みた。何にも代え難い財産だよね、きっと。
2003/06/04(水)
入院生活26日目
病院ではいつも大体23時頃寝て、必ず5時頃に目が覚める。もちろんまだ眠いから寝ようとするんだけど、たいして眠れず、今日は6時に看護婦さんがやってきて酸素濃度のチェックをされた。そんなもん朝からしなくてもいいじゃないかと思うんだけど。その後7時ごろ「お茶はどうですか?」(いらない)と起こされ、7時半ごろに朝ごはん。
しびれの方はなんとなく左足の方がよくなってる気がする。というか自分でもどれくらいよくなっているのか、いや良くなっているのかどうかすらわからない。
朝先生が回診にやってきて今日は午後1時半からチャンバーと言われ、その10分後にいきなり9時からに訂正となった。きわめていい加減…。チャンバーに行くときカルテを自分でもっていくのだけど、少し時間があったのでどんなことが書かれてるのか見てみた。
が、まず医者の字は大体読めない…別にドイツ語で書かれているからではなく、日本語も読めない。看護婦さんも想像以上に字が汚い。病院関係者は字が汚いという結論に。回診のレポート欄に、"午後3時パソコン使用中"なんてことまで書かれていた。しかも1週間ぐらいずっと同じ…
今日もチャンバーに1時間半。なんか入る前よりも状態が悪くなった気がする。気のせいだとは思うんだけど。
午後は沖縄県警の人がやってきた。名嘉真さんっていったっけな。カラフルなシャツを着てて、どう見ても警官に見えない。警察手帳は見せてもらえず、クビからそれらしきものをぶらさげてた。色々聞かれたけど、あまり詳しく覚えてない。潜水士の資格を取るよう勧められた…。
有料の個室へ移動の話は今日もなかった。朝シーツ交換時には言われていたんだけど、夕方聞いてみたら明日か明後日か、とか。いい加減である。せっかく荷物まとめたのに。
2003/06/05(木)
入院生活27日目
朝4時だか5時だかに、看護婦さんに起こされる。「ナースコールがあったんだけど」。そんな覚えはない。いったい何なんだよと思いまた寝ようとしたら、またもやナースコールがあったとかで看護婦が部屋に入ってきた。だから呼んでないって。いい加減過ぎる。ちなみに今日も部屋移動はなかった。
8時45分からチャンバー。今さらながらチャンバーを説明すると、人工加圧器。15分かけて3気圧まで圧力をかけた状態にし、その状態で高濃度の酸素を吸う。得られる効果は様々。途中一緒に入った患者さんのチューブが抜けてるとかで看護婦さんはその処置に夢中、僕は酸素を吸うことができず、結局従来40分ぐらい酸素を吸うところ25分ぐらいしか吸えなかった。処置の方が大切なのはわかるけど、マスクをするのなんてほんの10秒かかるかかからないかぐらいなんだから、それぐらい先にやってくれたっていいじゃないですか。
午後3時過ぎにSさんがきてくれた。せっかくの仕事の休みにわざわざきてくれるんだから、ありがたい限り。シュークリーム、コーヒーゼリー、白ごまプリンを買ってきてくれた。この辺はやっぱり25歳のOLという感じである。彼女は特に何をするわけでもなく、ロジックをやったり、昼寝をしたり。僕はそんな彼女をぼけーっと眺めていた。
彼女の存在は僕にとって非常に大きい。これだけ彼女に会えるならもうしばらく入院しててもいいかな、なんて馬鹿なことすら思う。君がいなかったら僕はどうなっていただろう。
大学院の入学手続きを友達が知らないうちにやってくれていたということを初めて知った。持つべきものは友である。
«続きを隠す
2005年09月26日
2003年減圧症入院記 part.9
退院の話が見え隠れ。あまり他人をイニシャル表示で表記することなんてないのに、あえてそうするとは・・・そういうことです。
2003/06/02(月)
入院生活24日目
チャンバー、1人用に1時間半。なんとなく症状は軽くなった気がするけど、あまり変わってない気もする。このまま1週間続けて良くなればさらに治療続行、ダメなら後遺症としてそのまま退院とか。どちらも微妙な選択である。
まあ東京にも病院はあるわけだし、あと針治療が効くとか聞いたこともある。プロテインを飲むといいとか、嘘だか本当だかわからない情報もある。どうなんだろうな。日常生活に支障があるわけじゃないから、もはやどうでもいい気がするんだけど。しびれといったって、別に正座したときほどあるわけじゃない。なんとなくピリピリするかな?程度である。割とダイビング関係者には多いらしいし。
最初杖ついて歩けるようになればいい方、とか言われていたことをまたもや初めて親から聞いた。それを考えれば奇跡的な回復である。とか自分に言い聞かせている今日この頃です。
夜10時すぎ、Sさん(これまで出てきた本島在住の人と同じ)がいきなりお見舞いにきてくれた。「アポなしサンタです」。大歓迎です。ミスタードーナッツを4つも買ってきてくれた。そんなに食べられないよ。でも嬉しかった。見舞いにきてくれたのはこれで7回目。僕が退院すること、すなわちそれは彼女との別れを意味する。もうしばらくこのままでもいいかな、なんて考えすら浮かんだり。
たいした知り合いでもない(宮古で合計約2週間一緒に潜っただけ)僕に、ここまで親切にしてくれてるSさん。僕は君のために何かできることがあるのだろうか。
2003/06/03(火)
入院生活25日目
朝起きたら右足のしびれが良くなってた。と同時に、なんとなく右脇の下辺りがピリピリする。一つ良くなれば一つ悪くなるのだろうか…。そしてサンダルを履こうとしたら小指の爪が思いっきり割れた。これは痛い。看護婦さんにいってみるも、先生にやってもらうしかない、とのこと。看護婦さんはあくまでも医者のサポートなのかな。
そして悪いことは続く。いきなり大部屋に移ってくれと言われた。ただ1日3000円払えば個室でも可。一応親がOKしてくれたので個室を希望。今さら大部屋なんてやってられないし。というか、じゃあ今までの個室は無料扱いだったのだろうか?よくわからない。今いるのは認床室という個室で、これから普通の個室(病室)に移るとか。荷物をまとめあとは移るばかり、と思ったら今日はまだこのままでよくなったとのこと。ほんといい加減な病院である。
あと午後1時半からと聞いていたチャンバーが、いきなり10時半からになった。めちゃくちゃである。小指の爪は先生が切って処置してくれた。チャンバーに入っても変化はなし。微妙である。
«続きを隠す
2005年09月25日
2003年減圧症入院記 part.8
ちょっとネガティブ。先も見えないし、症状も回復しない。開き直るしかなかったのだろうな。
2003/05/30(金)
入院生活21日目
ついに3週間。昨晩台風がきたと思ったら、あっという間にすぎさっていった。気圧が下がると僕の症状も悪くなるかもしれないと言われてたけど、特に変わりはなかった。
今日は午前にCT。脳の状態に変化なし。ちゃんと思考もできてるし、これといった障害はないと思うんだけど。もしかしたら来週退院の話があるかもしれない。とは言え、一度ダメになってるのであまり期待はしてない。このまま症状が固定してるなら、実家に戻って近くの病院で治療を受けましょうとか。この際大学を休学して、このまま治療を続けるというのもありなのかもしれない。東京の病院に入院とかになったら、それはそれで悲惨そうである。
消灯時間(21時)をすぎてるのに、今看護婦がやってきて体温を測って欲しいと言われた。寝てたらどうするんだよ。熱は36.5℃、朝よりも低く、久しぶりにまともな数字だった。
2003/05/31(土)
入院生活22日目
朝6時、いきなり看護婦さんがやってきて「採血しようねー」と言われる。嘘だろ…。しかも一回でうまくいかず、グリグリ針を動かされ、さらにもう一回。それでもうまくいかない。もう泣きそうというか、キレそうである。何が悲しくて朝6時から採血されなきゃいけないんだ。その後ベテラン看護婦(失敗した人もかなりの年っぽいけど)に交代となり、一発。結局3回も注射をされた。しかもシーツに血を垂らしていくし。
今日は久々にチャンバーに入った。手足のしびれがあるので、それの治療。でもあまり良くなったとは感じない。入る前を10としたら今はいくつですか?と聞かれ、適当に8と答えておいた。どうだろうな。自分でもわからない。来週1週間チャンバーに入り、その経過で退院の判断とのこと。もうどうでもいいような気がする。
夜にまた本島在住の人がお見舞いにきてくれるかもしれない。友達が家に遊びに来るときのようなワクワク感がある。
2003/06/01(日)
入院生活23日目
今日は一日お休み。親が雑誌や本をもって見舞いにきた。なんとなくカポーティ、あと夏目漱石を買ってくるよう頼んだ。恥ずかしながら今まで『坊ちゃん』と『吾輩は猫である』しか読んだことがないので、ちょうどいい機会。
夜はF-1を見てから寝た。モナコは抜けないので全く面白くない…。ウィリアムズのモナコ優勝は20年ぶりらしいけど。1時過ぎまで見てたら看護婦さんに「そろそろ(寝て下さい)・・・」と注意されてしまったよ。
«続きを隠す
2005年09月24日
2003年減圧症入院記 part.7
脳梗塞とかさらりと凄い言葉が出てきてます。本当に何もなくて良かったと思う。治療も何もされないのに病院にいなければいけないというのは、精神的に辛いです。
2003/05/27(火)
入院生活18日目
なんとなく手足がピリピリするけど、これといった治療もなし。今日も一日暇だった。昼食にカレーがでたので、初めて食事を残さずに食べた。あとは熱を3回ぐらい測られたぐらい。
この病院はとにかくいい加減である。まず体温計をもってきたら、必ずとりにくるのを忘れる。僕は10分ぐらいワキの下にはさみっぱなし。
医師も担当医以外は適当だからやってられない。朝の回診で手足がピリピリするなら酸素を吸いましょうか?自分でできる?みたいな話をされたけど、それっきり何も言われてない。午後別の人にも酸素吸ってないの?ちょっと聞いてみるね、と言われたきり何も連絡がない。非常に適当である。こんなんじゃ治るものも治らない気がする…。
午後に海上保安署の人がやってきて、書面にサインを求められた。これが笑っちゃうぐらい面白い書類で、できるものならコピーをもらいたいぐらいだった。質問にはできる限り詳しくきちんと答えたのに、その大体は適当に処理されてた。大体、事故現場のウォールケープっていう名前自体間違ってる。ウォールケー"ブ"だ。マスクを水中眼鏡と表記するのもいかがなものかと思う。でも面倒だからそのまま見なかったことに。昨日の書類に訂正を加えたとのことだけど、もうどうでもよくなって何も見ずにサイン。しきりに診断書のコピーが欲しいと言ってたけど、こっちだっていつ退院できるのかわからない。保安署なんか無視してとっとと帰りたいものである。
あとはずっと『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んでた。これほど何も起こらない小説というのも初めてだ。サリンジャーの話は大体インパクトが強いんだけど。面白いのか面白くないのかはまだ分からないが、なんとなくこの作品が世界中で評価されてる理由は分かる気がする。
2003/05/28(水)
入院生活19日目
今日もやはりすることは特になし。朝は先生にくだらない質問をされた。前の100から7引いた数を順に言っていってとか、知ってる野菜をできるだけ言ってとか、そんな感じ。僕の減圧症は脳型といって、右半身の麻痺もあったけど、最初まともに思考することができなかった。とは言え最初の3日間ぐらいのことだと思うんだけど。で、CTとMRIの結果、脳梗塞の所見があるとか。どうするのだろうな。まあ今のところ英語でメールを書くこともできてるし、それほど問題はない気がする。
『ライ麦畑でつかまえて』を読み終えてうとうとしてると、本島在住の人が今日は仕事が休みだからと昼間からきてくれた。とはいえ、特別することもないので、彼女は部屋にある椅子で寝てた。僕はその寝顔をぼけーっと眺めてた。こんな時間の過ごし方も悪くない。
夜ネットでルービックキューブについて調べてたら、意外なほど解法紹介が多い。何度か挫折したのち、見事6面完成。これを覚えられれば、僕にも1つ特技ができるかもしれない。特技ルービックキューブというのもどうかと思うのだけど。あいのりじゃないんだから(見てないから知らないが、看護婦さん曰く得意な人がいたらしい)。
«続きを隠す
2005年09月23日
2003年減圧症入院記 part.6
うまくいけば早くも退院という話だったが、うまくいかなかったので退院延期。このこと自体はショックだったけど、実はこれはこれで悪くなかった。その話はこの後の展開で少しわかるのではないかと。
2003/05/24(土)
入院生活15日目
朝から体調が悪い。昨日クーラーをつけっぱなしにして寝たのが良くなかったのかもしれない。でもこの病室、クーラーを切ると暑いし、つけると寒い、というめちゃくちゃな管理なのである。何がコンピューター管理だよ(そう書いてある)。
午後から海上保安署の人がまたきて、色々としょうもないことを聞かれた。仕事だから仕方ないんだろうけどさ。あと堂々と人の携帯に電話をかけてくるのもやめていただきたい。個室だし、特に問題はないと思うんだけど。
夜10時頃、本島在住の元スタッフの人が仕事帰りに見舞いにきてくれた。凄く嬉しかった。シュークリーム2つとエクレア、プリンにチーズケーキを買ってきてくれたんだけど、そんなに食べられない…。
2003/05/25(日)
入院生活16日目
この日も体調がすぐれず。しかも手足がなんとなくピリピリする。ということを看護婦さんに伝えたら大げさなことになり、再び酸素を吸わされた。まあトイレにいくときは外してもいいんだけど。昨日から親がきてて、今日はレンタカーを借りて観光にいった…。村上春樹訳の『ライ麦畑で捕まえて』を買ってきてくれたからいいんだけどさ。
夜9時半頃、今日も本島在住の人が遊びにきてくれた。どうしてお店を辞めてしまったのかとか、そういうことを色々と聞いた。素敵な人である。
2003/05/26(月)
入院生活17日目
昨日ちょっと具合が悪くなったということで、朝医者にもう少し様子を見ようと言われる。昼間海上保安署の人がきて、またまた色々と聞かれた。
そして親が話を聞きに行ったら退院はやっぱり無理で、もう1,2週間様子を見ようとか。1,2週間ってアバウトだよな。すっかり帰る気でいたのに、これはさすがにショックだった。大学の単位も気にかかるところなんだけど、どうだろう。とりあえず英語の先生にはメールを出し、課題をメールで送れば特別措置をとるみたいな返信が返ってきた。この単位がないと、僕は今年卒業できないのである。参った、参った。
«続きを隠す
2005年09月22日
2003年減圧症入院記 part.5
入院生活は退屈との闘いでもある。午前に治療を受ける以外、何もすることがない。それでも1日,1日が過ぎ去っていくわけで、なんだかどうしようもない気分でいたことを記憶している。
2003/05/21(水)
入院生活12日目
チャンバーに1時間半。午後は宮古のお店の人と、本島在住の元ショップのスタッフの人がお見舞いにきてくれた。嬉しかったな。僕がホテルに残していった靴やお菓子や朝ご飯用のパンなどをもってきてくれた。これは非常に恥ずかしかった。そんなもの持ってきてくれなくても・・・。
2003/05/22(木)
入院生活13日目
チャンバーに1時間半。握力はこの2,3日たいして変わらず、左右30前後。元々いくつあったのか知らないので、力が元に戻ってるかどうかはわからない。一応今日でチャンバーは最後。これから3日間様子観察で、経過が良好なら月曜退院予定。
夜8時頃いきなり部屋の扉がガラガラと開いたと思ったら、宮古のショップの人がきてくれた。全然知らなかったからびっくりした。もう1人のイントラの人も船でこっちに向かってるとかで、その日はホテルに帰っていった。
2003/05/23(金)
入院生活14日目
特にすることもないな、と思ってたらショップの人が2人見舞いにきてくれた。そして病院内の食事にまいってる僕を、外に連れ出してくれた。ガストでカレーを食べ、特に美味しいとは思わなかったけど、それでも嬉しかった。あと本屋に寄ってもらって雑誌を購入。
午後はCTとMRIの検査を受けた。CTはまだいいけど、MRIは最悪である。頭が動かないよう固定され、小さな筒みたいのに入り、わけもわからない音を延々と聞く。もう少しでおかしくなりそうだった。
イントラの人は今日の船で宮古に帰り、もう1人はやはり病室に泊まっていった…。
«続きを隠す
2005年09月21日
2003年減圧症入院記 part.4
ようやく歩けるように。でもちょっと足を引きずりながらだったかな。親にノートパソコンを持ってきてもらったのもこの時。すなわち今までの日記はこのあたりでまとめて書いたもの。偶然NTT DoCoMoのPHSの定額サービス@Freedに加入していたのに本当に救われた。
2003/05/18(日)
入院生活9日目
今日はチャンバー休み。もう自力で歩けるようになったし、病院生活は暇だなと思う余裕すら出てきた。見舞いに来てくれた親が部屋で寝てた。ほのぼのとした光景。
2003/05/19(月)
入院生活10日目
今日はチャンバー1時間半。大きなチャンバーとなり、老人達4人と一緒に入った。骨折とかそういう治療にも効くらしい。
そして部屋が移動となった。別の患者さんがきたためとか言われたけど、今度の個室は非常に狭く、トイレがなければテレビも有料。でももう歩くのには問題なく、トイレは鼻につけていた酸素の吸入器を外し、部屋を抜け出して行った。
2003/05/20(火)
入院生活11日目
朝医者から酸素を外していい(ずっと鼻につけてた)との指示があり、ついに自由の身に!この酸素はベッドの上に取り付けられている装置から出ていたから、今までは病院内を自由に移動することもできなかったのである。これは凄く嬉しかった。もうすっかり自力で歩けるようになっていたので、1時間半チャンバーに入ったあと、早速シャワーを浴びにいった。もちろん自分一人で。
昼から海上保安署の人が事情聴取にきた。わけのわからない質問をいくつもされた気がする。ちゃんと答えられたと思うんだけど。
«続きを隠す
2005年09月20日
2003年減圧症入院記 part.3
ようやく回復の兆し。でも、今考えると相当やばかったなと思うのだけど、親が買ってきてくれた雑誌とか全然頭に入らなかった。文字を読む(認識する)ことはできるものの、それが文章として理解できない。
ただ、不思議と当時は自分が一生このままとか、直らないとか、そんなことは全く考えなかった。その辺のポジティブさが良い方向に働いたのかもしれない。一応あらかじめ言っておくと、今は全く問題ないです。
2003/05/15(木)
入院生活6日目
相変わらずカプセルに5時間。少しずつ足も手も動くようになってきた。終わった後握力を測ったら、右が11とか…。これは凄い。
そしてついに個室へ移動。しかも恐らく病院内で一番いい部屋。テレビは見放題だし、バス・トイレ・冷蔵庫・水道・台所までついてる。この部屋高いのかなあとか気になったけど、まあいいか。
2003/05/16(金)
入院生活7日目
今日はチャンバー2時間半!半分になった!これは嬉しかったし、あっという間に感じられた。退院したショップの人は船で宮古に帰り、もう1人宮古から来てくれた人は、ホテル代を浮かせるため僕の部屋で寝た…。
この病院は非常にいい加減で、看護婦さんに見つかっても何も言われなかった。「電気つけてると異常ありと思ってしまうから、消灯してください」とか。他にいうことがあるだろうと思う。
2003/05/17(土)
入院生活8日目
チャンバー2時間半、あとシャワーにいれてくれた。「若い娘の方がいいか?」とか聞かれたけど、まあそんなことはどうでもいいので。結局若い看護婦さんだったのだけど、だからなんだというわけでもない。記憶がたしかなら、ふらつきながらだけど立てたし、箸もちゃんともてた。
あとこの日導尿をやめた。チャンバーに長時間入ってるし、自力でトイレにいくことはできないので、今までずっと管を通されていたのである。それを抜かれた。このときの痛みは耐え難いものがあった。二度と経験したくない。
«続きを隠す
2005年09月19日
2003年減圧症入院記 part.2
そんなわけで沖縄の病院に1ヶ月以上も入院することになったのだけど、凄くついていたこともあった。何より大きいのが、小浜先生という潜水医学(?)では非常に有名な医師に診てもらえたということ。偶然宮古のチャンバーが壊れていて良かった。この先生でなければ、僕は今頃普通に歩けなかったかもしれないし、まともな思考をすることもできなかったかもしれない。1つの可能性としてだけど。とにかく不幸中の幸いというか、非常に幸運だった。
そしてもう1つ・・・それは後々わかります。
ちなみに、当然ながらこの頃の日記は後日思い出しながら書いていったものです。右半身が麻痺していたのだから、キーボードなんて打てるわけがない。
2003/05/12(月)
入院生活3日目
昨日、一昨日は大きい筒みたいなチャンバーにいれられたのだけど、今日は1人がようやく入れる、カプセルみたいなチャンバーに入って加圧治療。5時間。横にテレビがあるものの、はっきりいって地獄である。右半身が少しだけ動くようになった気がする。この日もICUで、そのほかのことは全然覚えてない。
2003/05/13(火)
入院生活4日目
同じくカプセルチャンバーに5時間。朝9時に入って、出るのが午後2時である。その間ずっとテレビを見てた。というかテレビを見ることぐらいしかやることがない。
この日もICUだったけど、宮古からお店の人が面会に来てくれた。心強かったな。一緒に運ばれたイントラの人は、この日に退院とか。
2003/05/14(水)
入院生活5日目
今日も元気にカプセルチャンバー。全く動かない状態を10とすると、今はいくつ?みたいな質問をされた気がする。あと100-7や自分の年齢をまともに答えられた気がする。
この日やっとシャワーにいれてくれた。といっても僕は寝たきりなので、看護婦さん達がそのままお湯をかけてくれただけ。なんとも屈辱的だけど、そんなことを言ってる余裕もなく・・・。何しろ5日間シャワーに入ってなかったので、塩だらけで悲惨な状態になってたに違いない。
観察室みたいなHCUというところに移され、あと色々な人がお見舞いにきてくれた。もう会えないと思ってた元イントラの人がきてくれたのは本当に嬉しかった。近くのスーパーでこれでもかというぐらいたくさんご飯を買ってきてくれ、特に食事制限は出てなかったものの、看護婦さん達は唖然としてた。
«続きを隠す
2005年09月18日
2003年減圧症入院記 part.1
減圧症:水中など高圧環境で作業する者が水上や地上に急に戻ったとき、血液に溶け込んだ窒素が気泡化して起こるガス塞栓症。関節痛・筋肉痛、皮下の小出血、運動知覚障害などが現れる。ケーソン病。潜水病。(大辞林より)
2003年5月、宮古島でダイビングを楽しんでいるときに減圧症になりました。治療のため1ヶ月強沖縄本島の病院に入院。その時に書いていた日記を公開します。
2003/05/10(土)
宮古4日目、しかし…
まさかね、そんなことが起こるとはね。この日もいつも通り下地島にあるポイントに向かい、普通にエントリー。深度42.3メートルは深いかなと思ったけど、それほど気にもせず。が、浮上途中に右半身の感覚がおかしいことに気づく。
これはやばい!という考えが瞬時に頭の中をよぎった。右腕が動かない。右足も動かない。浮上速度をコントロールすることができず、ほとんどパニック状態に。気づいたら海面に出ていて、バディのインストラクターが僕を助けてくれたのだけど、僕は意識がもうろうとしててろくに返事もすることができなかった。そして右半身が全く動かない。完全に減圧症というやつである。平衡感覚もなかったし、視界も狭かった。
なんとか船に乗せられ、酸素を吸わされたのまでは覚えてる。あとはもうほとんど意識がなく、気づいたらボートが変わっていて、救急車に乗せられるところだった。MRIやらなんやらの検査を受け、本当はすぐにでもチャンバーと呼ばれる加圧室に入るべきなんだけど(こちらを参照)、宮古病院のチャンバーは壊れてて入れないとか。結局自衛隊の人が石垣島からやってきて、沖縄本島にセスナで搬送された。ちなみに気圧の関係で高度をあげられないため、高度300メートルで飛んだとか。このとき再び意識を失ってたため、これは全く記憶にない。同伴してくれた人曰く、めちゃくちゃ怖かったとか。ちなみに同伴してくれたこのイントラの人も僕を助けたため減圧症になった。
気づいたら病院のチャンバー内に入ってた。半分死にそうな状態で耳抜きなんてできるわけもなく、何度も加圧を止めてもらったのを記憶してる。途中映画をかけてくれたり、サーターアンダギーをくれたりしたような気がするけど、よく覚えてない。
たしかチャンバーを出たのが午前1時過ぎとかで、その日はICUに。
ちなみに後日親から聞いたんだけど、僕は元々肺に気泡があって、減圧時にそれが破裂する可能性があったので医者がチャンバー内で開胸手術をする準備をしてたとか。今聞くとぞっとする話である。何もなくて良かった。
2003/05/11(日) 14:22
入院生活2日目
あまり記憶がない。気づいたらチャンバーに入ってた。途中で「生年月日は?」とか「100-7は?」とかくだらない質問をされたんだけど、これがろくに答えられない。曰く僕は56歳だと言ったり、100-7=700と答えたとか。
食事もとった覚えがないし、そのほかの時間は何をしてたんだろう。この日もICU。
両親が飛んできてくれた。2人の顔を見て、僕は涙をこらえきれなかった。
«続きを隠す
2005年09月07日
Dedicated to the memories of summer, 2001
